プロ野球の広島、大洋で監督を務めた古葉竹識さんが12日に85歳で亡くなった。広島を3度の日本一に導いただけでなく、東京国際大の監督も務めるなどアマチュア球界にも大きな足跡を残した。
「天と地がひっくり返った」。1975年10月16日、毎日新聞紙面は広島初優勝の驚きをこんな表現で伝えた。常勝の巨人が最下位に沈み、それまで3年連続最下位の赤ヘルが起こした奇跡。快挙をもたらしたのが、この年の途中に監督になった古葉竹識さんだ。
カープは広島への原爆投下後間もない50年に市民の手で設立された。親会社を持たないため財政難に苦しんだが、「たる募金」など市民の献身的な支えで存続してきた。設立から26年目。古葉さんは「耐えて勝つ」を身上に「赤ヘル旋風」を巻き起こした。平和大通りであった優勝パレードには30万人が集まったという。優勝は、復興の歩みを進めていた被爆地・広島の市民の悲願だった。
古葉さんは試合中、選手やコーチがミスをすると、その場で激しく叱責した。「できる選手だからボロクソに言うんだ。(当時の看板選手の)山本浩二や衣笠(祥雄、故人)でも同じ。ゲーム中の集中力をそうやって養っておくと、競り合った時に本当の強さになって出てくる」と力説したという。
ピンチでも沈着だった。79年、近鉄との日本シリーズ。3勝3敗で迎えた第7戦、広島が1点をリードした九回裏無死満塁。抑えの江夏豊投手がスクイズを外し、後に「江夏の21球」として球史に刻まれる場面もこう振り返った。「(無死満塁の最終回は)なるようになれと思っていた。江夏を代える気はまったくなかった。ああなればかえって冷静になるもんです。ベンチで見とっただけです」
36年4月、熊本市で鉄工所を営む両親の間に生まれた。野球と出合ったのは終戦間もない小学生のころ。母親が縫い合わせたボロぎれのグラブを使い、少年野球で大活躍したという。
熊本・済々黌高2年の春、父親が白血病で死去。鉄工所を失い、母子8人が6畳一間にひしめく貧しい暮らしが続いた。専修大に進学したが、わずか8カ月で中退し、社会人野球の日鉄二瀬入り。古葉さんはその理由をこう語っていた。「一生懸命頑張って一流のプロ選手になって、お金をもうけ、母を幸せにしてやりたかった」
2008年に東京国際大の監督に就任。人づてに紹介された大学の幹部に「大学を活性化するにはスポーツに力を入れるしかない。そのシンボルとして来てほしい」と頼まれてのことだった。期待に応え、11年に東京新大学春季リーグ初優勝に導き、全日本大学選手権で4強に進出した。
普段は温厚だったが、試合では貧しさからはい上がる過程で培われた厳しい姿勢が表れた。その意味で、本当の勝負師だった。【平本泰章、大東祐紀】
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