いつかはその日が来ると、頭では理解していた。理解していたつもりだった。しかし、実際にその日を迎えると、驚きに言葉を奪われた。
川崎フロンターレの元日本代表MF中村憲剛が、11月1日午後に今シーズン限りでの現役引退を発表した。フロンターレひと筋のキャリアを築いてきた40歳は、表情に憂いや陰りを浮かべることもなく、胸のなかに抱えていた思いを爽やかに明かしていった。
コロナ禍のためにオンライン配信となった記者会見で、代表質問をしたのは中西哲生である。中西はフロンターレのOBで、1999年に初めてJ1昇格を果たした同チームでキャプテンを務めていた。背番号は14──。のちに中村のアイコンとなる番号だ。
中西は2000年限りで現役を引退し、中村は03年にフロンターレに入団する。2人が同じピッチに立つことはなかったが、互いが抱くサッカーとフロンターレへの思いは共鳴し、彼らは親交を深めていった。中村は中西を、「良き理解者」と言う。
中村憲剛という稀代のフットボーラーについて、中西に語ってもらった。
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引退の意思を聞いたのは、中村憲剛選手が鬼木達監督に話した後、10月25日の夜でした。電話で「引退します」と聞いた瞬間は、すぐには受け止められませんでした。
左ひざ前十字じん帯断裂の大ケガから8月末に復帰した中村選手は、彼らしいパフォーマンスを見せていました。客観的に評価してもまだまだ十分にトップレベルでプレーできるし、脇坂泰斗、守田英正、三笘薫、旗手怜央、田中碧、宮代大聖といった若手や中堅の選手は、中村選手から学べるものがたくさんある。これからのフロンターレを支えていく選手に、国際舞台へ羽ばたいていく可能性を秘めたチームメイトに、同じ現役選手としてもっともっと色々なことを伝えてほしい、という思いは膨らむばかりでした。
けれど、「5年ぐらい前から、40歳を区切りに引退しようと考えていました」と言うのです。彼なりに熟考を重ねた末の結論です。ここまで成し遂げてきたものに敬意を表して、快く送り出すべきだと考えました。
J1強豪クラブになったのは「中村憲剛」がいたからこそ
中村選手のプロとしての足跡は、そのままフロンターレというクラブの成長曲線に重なります。彼が入団した2003年はJ2で戦っていて、3年目の2005年からJ1へ戦いの舞台が移った。2006年には当時の最高位となる2位に躍進しましたが、中村選手はこの年に初めて日本代表に選ばれています。日々のトレーニングでのひたむきな姿勢に加えて、フロンターレを代表して国際舞台で戦うという責任感が、スケールアップを促していったのだろうと感じます。
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