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Saturday, May 23, 2020

サッカー特待生からの絶望 プログラミングではい上がるまでの日々 「スポーツ業界は資本主義と別の世界」(withnews) - Yahoo!ニュース

高校時代、サッカーのインターハイで埼玉県代表となった中西裕太郎さん(25)。将来を有望され、進路は引き手あまたの人生から一変、突然の心臓疾患によりサッカー選手への道を絶たれました。高校卒業後、ベンチャー企業の創業に携わった後、大手企業への転職、そして23歳で、自身の会社を起業しました。若いアスリートには「今いるスポーツ業界は離島。資本主義とは別の世界にいる」と呼びかける中西さん。選手時代に培った「間合いの取り方」で面接を乗り切り、起業にいたるセカンドキャリアの道のりを聞きました。(ライター・小野ヒデコ) 【写真】あのアスリートも芸人も、じわじわ広がる「埼玉ポーズ」の画像はこちら

12歳で味わった初めての挫折

<小学校時代は文武両道タイプ。しかし、「選ばれない」ことを経験> サッカーをはじめたきっかけは、幼稚園の時にボールを蹴ったときにたまたま上手かったからです。あとは、素直にモテたかったから(笑)。サッカーが上手いと人気者になれると思っていました。 幼稚園からサッカークラブに入り、小学校では地元の少年サッカーチームに入りました。サッカー少年が憧れる10番をつけて、キャプテンをしていました。勉強も出来る方だったので、自分に出来ないことはないと思っていましたね。 その自信が崩れたのは、中学校に上がる時でした。地元の埼玉県はサッカーが盛んで、同級生でJリーグの浦和レッズやプロサッカーチームの大宮アルディージャの下部組織の選手に選ばれる中、僕は選ばれなかったんです。 県の選抜選手にも選ばれていて、自信があったので余計に悔しかったですね。生まれて初めて挫折を味わいました。

18歳で泣きながら遺書を書いた

<念願のインターハイ出場が決まった矢先、病気を発症。夢、破れる> サッカーにおいては、オールラウンダーだったことが強みでした。何かが飛びぬけて優れているわけではなく、当たり前のことを人より少し多くできる。それで勝ってきた人間でした。 高校は、サッカーの特待生として進学しました。サッカー部員は約180人いたのですが、誰よりも早く朝練を始めたり、先輩にアドバイスを求めたりと地道に努力をした結果、スタメンを勝ち取りました。 そして2012年の高校3年の夏、2年ぶりに埼玉県代表になったんです。インターハイに出場すると有名大学からのサッカー推薦や、Jリーグからのオファーの可能性が出てきます。メディアにも注目選手として取材され、プロへの道が開き始めたと思いました。 そんな時、練習中に突然動けなくなるほどの激痛が胸に走ったんです。精密検査をした結果、狭心症の疑いがあると診断されました。即入院で、カテーテル手術をすることになりました。幸い命に別状はなかったのですが、病気になったことで、声かけてもらっていた進路がすべて水の泡になりました。 突然プロサッカー選手への夢が閉ざされ、絶望しましたね……。自暴自棄になり、両親、家族、友人やそのお母さんなど、お世話になった人へ泣きながら遺書まで書きました。

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May 21, 2020 at 02:00PM
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