10月31日の投票日を控えて、選挙戦が盛り上がってきた。コロナ対策、安全保障、教育支援などとさまざまな政策が訴えられている中で、ビジネスパーソンとしてやはり気になるのは経済政策、特に「安いニッポンから抜け出せるのか」ということではないか。
ご存じのように、日本はこの30年間、まったくと言っていいほど賃金が上がっておらず、ついに韓国にまで抜かれる始末だ。また、そんな常軌を逸した低賃金が、貧困化、競争力の低下、生産性低下などに拍車をかけているというシビアな現実もある。
そこで各党も「同一価値労働同一賃金の法制化」や「最低賃金を1500円に引き上げる」など、賃上げを達成するためにさまざまな目玉政策を打ち出しているが、中には「なぜそんな意味のないことを?」と首を傾げてしまうような“残念な政策”もある。
それは、自民党の『「労働分配率の向上」に向けて、賃上げに積極的な企業への税制支援を行います』(自民党政権公約より)というものだ。
要するに、法人税などを優遇することで、賃上げを誘導していこうというわけだ。「賃上げのためにも企業の成長を後押しする、正しい政策じゃないか」と拍手喝采する支持者の方たちもたくさんおられる中で、このようなことを言うのは大変気が引けるのだが、残念ながら、自民党がこの公約を守ってくれたとしても、日本の賃金はほとんど上がらない。
ご存じの方も多いだろうが、日本では企業の6割超が法人税を払っていない。「赤字企業」だからだ。
国税庁が2021年3月26日に公表した「国税庁統計法人税表」(19年度)によれば、全国の普通法人276万7336社のうち、赤字法人(欠損法人)は181万2332社。赤字法人率は65.4%となっている。そして、この多くは中小企業だ。日本は99.7%が中小企業で、大企業はわずか0.3%だからだ。
つまり、日本の賃金を上げていくには中小企業に賃上げをしてもらうことが必要不可欠なのだが、なんとそのうちの6割以上が赤字企業で税金さえ払っていないのだ。
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誰トクなのか
ここまで赤字企業だらけ、というのは世界的に見てもかなり珍しい。少し古いデータだが、総務省の「法人数と利益法人割合の国際比較」という資料では、各国の赤字法人率が米国46%、英国48%、ドイツ56%、韓国46%と半分程度となっている中で日本だけが72%(12年度)となっており、「一部の黒字企業に税負担が集中しているものと考えられる」と指摘している。
しかも、この異常なほど多い赤字企業の中には「税金を払いたくない」という理由から意図的に赤字にしている中小企業もある、と言われている。
財政金融委員会調査室の「中小企業をめぐる税制の現状と課題」の中でも、中小企業の税制問題の特徴として「赤字法人問題」を挙げて、「赤字を出しながら経済活動が維持できる理由について純粋な疑問も生じる」「赤字法人問題は所得操作など税務戦略が作用しているとの指摘は絶えない」などの問題提起をしている。
そこで想像していただきたい。このような「赤字法人問題」が半ば常識化している中で、「賃上げに積極的な企業への税制支援」がどれほど効果を発揮するだろうか。
一般的に、赤字企業は賃上げに積極的ではない。「経営が苦しいので我慢してくれ」と従業員を納得させることもできるからだ。こういう赤字企業に対して「税制支援」をちらつかしてもそのスタンスにほとんど影響はない。そもそも法人税を払っていないので、わざわざ賃上げに踏み切るメリットが皆無なのだ。
一方、黒字企業の場合、既にそれなりに賃上げをしているケースのほうが多い。「税制支援」をちらつかされても、「もう十分賃上げしてきたよ」ということで、こちらも効果は限定的だ。
つまり、自民党が賃上げの切り札として掲げている「賃上げに積極的な企業への税制支援」というのは、「誰トク?」と首を傾げてしまうほど、どこを対象に、どんな効果を狙ったものなのかがさっぱり分からない、「謎の経済政策」なのだ。
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菅路線を否定か
これは何も筆者だけが言っているわけではない。『産経新聞』も、この経済政策に関しては繰り返し難癖をつけている。
『分配を促すため、岸田氏は所信表明で「賃上げを行う企業への税制支援を抜本強化する」と述べた。ただ、東京財団政策研究所の森信茂樹研究主幹は「減税だけで賃金を上げろといっても無理がある」と効果を疑問視する。既に中小企業を対象に、賃上げ分の15〜25%を法人税から減額する「所得拡大促進税制」があるが、企業の賃上げにはあまり結びついていないとされるからだ』(産経新聞 10月8日)
『6割超の企業は赤字で法人税を支払っておらず、税制支援の恩恵は受けない。こうした企業は大企業より中小企業に多く、「大企業優遇」だと批判があるのも事実だ』(産経新聞 10月12日)
では、そこで気になるのは、なぜ自民党は誰が見ても「効果が薄い」と言わざるを得ない、ぼんやりとした政策をこの大事な大一番で掲げているのか、ということではないか。
いろいろな考察があるだろうが、筆者は「菅路線の否定」というメッセージを広く示す意味合いが強いと感じている。要するに、これで本気で賃上げをしようということではなく、「ガースーは干したので安心してください」という選挙パフォーマンスだ。
「答え方に誠意がない」「伝える力ゼロ」などとボロカスに叩かれて去っていった菅氏だが、実はこれまでの自民党では実現できなかった政策をいくつも前に進めた、という点ではもっと高く評価をされるべきだ。
その一つが、「中小企業政策の大転換」である。
本連載で繰り返し説明してきたが、日本ではかれこれ50年以上、中小企業に対して「保護政策」がとられてきた。中小企業が倒産しないように、とにかく補助金なのでできる限り支えていくという政策である。
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中小企業を守る
米国型の新自由主義でも、北欧型の福祉国家でも「競争力のなくなった会社が潰れるのは自然の摂理」という考え方が一般的だ。古い会社が消えて新しい会社が生まれる、という新陳代謝で経済が成長していくのが、資本主義の常識だからだ。しかし、なぜか日本は生活保護並に中小企業を守るようになった。
この背景には、「中小企業は日本の宝であり、中小企業が元気だと日本経済も成長をする」という日本やイタリアで見られる「中小企業信仰」もあるが、何よりも大きいのは「政治力」だ。
例えば、スーパーなどの大型店規制が分かりやすい。今でこそイオンやライフが全国にあふれているが、40年くらい前までは、大型スーパーは「社会悪」とされ厳しい規制の対象だった。なぜそうなってしまったのかという背景は、当時の『日経新聞』を読めば分かる。
『ここ数年、中小小売業の政治パワーに苦汁を飲まされ続けてきたスーパー、「政治力をつけないことには中小側の思うままになる」と危機感を強めている。といってもそう簡単にことは運ばない。何しろ相手側には「中小小売業は社会的弱者、政治的に保護されるべき存在」という”錦の御旗”がある、集票力もかなわない。中小小売商を守る議員連盟には自民党だけですでに180人近い国会議員が加わっている』(日本経済新聞 1982年3月21日)
つまり、日本の中小企業は、与党への強い政治力で「保護」を勝ち取ってきた歴史的事実があるのだ。そして、重要なのが、この政治力が紆余曲折ありながらも現在までしっかりと継続していることだ。
例えば、19年の参院選。日本商工会議所幹部らで組織する政治団体「全国商工政治連盟」の組織内候補である、宮本周司氏が自民党の比例で出馬して、約20万票を獲得して再選を果たした。6年前の初当選から2万票も上積みして、比例選での順位も4つ上げた。その後、宮本氏は経済産業大臣政務官を拝命。中小企業団体からすれば、理想的なキャリアアップだ。商工会幹部もマスコミに対して、こんな自信をのぞかせている。
『農協(農業協同組合)や郵便局の勢いには陰りが見える。民主党政権時代も一貫して自民党を支持した我々の存在感はさらに高められる』(読売新聞 2019年8月16日)
野党に下ったときも見捨てないで支え続けて、選挙でもしっかり貢献した。当然、中小企業3団体は「論功行賞」として、これまで以上に手厚い中小企業保護を期待した。が、この「魚心あれば水心あり」という関係をぶち壊した人間がいる。そう、菅義偉前首相だ。
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毒にも薬にもならない
菅氏は官房長官時代から、日本が50年以上続けてきた「中小企業保護」の転換を狙っていた。最低賃金を段階的に引き上げて、業態転換も支援をしていく。つまり、「中小企業」というだけで「大丈夫? 困ったことない?」と過保護な親のようにチヤホヤするのではなく、「成長していく中小企業だけを応援する」という方針へとかじを切ったのである。
「そんなの当たり前でしょ」と思う方も多いだろうが、中小企業3団体などからすればこんな「裏切り」はない。中小企業が成長をすれば賃金は上がる、だから黙って政府は中小企業を支援せよ、が50年続けてきた暗黙のルールだからだ。
しかし、結局、最低賃金の引き上げを阻止することができなかった。中小企業3団体などが主張していた「最低賃金引き上げたら倒産だらけで阿鼻叫喚の地獄」というのは実は世界的に見るとまったく科学的根拠がない。ノーベル経済学賞を受賞した学者も、最低賃金の低い国が、給与を引き上げても雇用に悪影響を及ぼす証拠は存在しない、という論文を発表している。
だから、日本以外の先進国は着々と最低賃金を引き上げてきた。日本も遅ればせながら、昭和の経済理論から脱して世界の潮流を取り入れたというわけだ。
もちろん、中小企業3団体は黙って従ったわけではない。この屈辱的な仕打ちに対して、団体内部からは「政治への関与を一段と強めるべきだ」(読売新聞 2019年8月16日)といった声が上がったという。つまり、腹の底では「日本の中小企業を潰す極悪人・菅義偉」へのリベンジを誓っていたのだ。
そのような形で中小企業3団体とバチバチのバトルを繰り広げていた中で、菅政権は国政選挙で負け続けていた。コロナ対応でもボロカスに叩かれ、最後は国民から嵐のようなバッシングを受けて、菅氏は権力の座から引きずり下された。
さて、こうなるとどんな政治的力学が働くか想像していただきたい。中小企業3団体は「ようやく暗黒の時代が終わった」と胸を撫(な)で下ろし、菅氏が進めた最低賃金引き上げ路線の方針転換を狙うことは間違いない。
一方、菅政権からバトンを受け継いだ岸田政権としても、まずは衆院選で勝って政権を安定させないことには何も始まらない。そのため必要なのは、中小企業3団体からの力強い支援。そこで絶対に必要なのが、関係悪化の元凶である「最低賃金の引き上げ」という菅政権の目玉政策の「封印」だ。それは、「ご迷惑おかけしたヤツはもう干したんで、中小企業の皆さん安心してください」という和平の証でもある。
かといって、「賃上げ」は今回大きな争点となっている。そこで必要だったのが、現行の中小企業政策にほとんど影響を及ばさない政策だ。毒にも薬にもならないが、国民に対しては「なんとなく賃上げできそう」という“やっている感”を抱かせるようなものが望ましい。
それが、「賃上げに積極的な企業への税制支援」という謎の政策ではなかったか。
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安いニッポンから脱出できるのか
もちろん、これらはすべて筆者の想像に過ぎない。が、天敵・菅義偉の政治的影響力が消滅したことで、中小企業3団体の発言力が以前よりも増していることは、岸田政権の目玉である「新しい資本主義実現会議」のメンバーを見てもよく分かる。
菅政権時の成長戦略会議には、「最低賃金の引き上げ」を強く主張していたデービッド・アトキンソン氏や新浪剛史氏がいて、三村明夫日本商工会議所会頭と時に激しい議論をしてきた。が、「新しい資本主義実現会議」では、三村会頭以外のメンバーはすべて消えている。何をか言わんや、であろう。
「中小企業支援」で賃金がちっとも上がらないことは既に歴史が証明しているが、それでもこの政策に与党が固執するのは、政権維持のために不可欠だからだ。
安倍長期政権の強さをバッグに、菅前首相は「中小企業保護」という構造的な問題に手を突っ込むことができたが、今の自民党はそんな博打は打てない。それは、まだしばらく「中小企業の低賃金労働」も保護されるので、「安いニッポン」も継続していくということだ。
選挙に弱い政権は、さまざまな支持団体の世話にならなくてはいけないので、首相とはいえ中間管理職のように「御用聞き」にならざるを得ない。
支援団体の多くは、経営者の利益を守る業界団体だ。日本医師会や日本商工会議所が分かりやすいが、まず病院や中小企業が存続することが大事なので、賃上げや労働環境の改善はどうしても後回しになる。
「失われた30年」を振り返ると、小泉、安倍政権以外はほとんど2年程度で終わっている。それはつまり、選挙が弱いということなので、労働者軽視がずっと続いてきた。「安いニッポン」は短命政権がつくったと言ってもいいのかもしれない。
岸田政権も今回、苦戦が伝えられている。来年に参院選も控える中で、これまで以上に業界団体の要望を、岸田ノートに書き込まないといけないはずだ。もはやわれわれは、自分たちの力で「安いニッポン」から脱出することは難しいのかもしれない。
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