21日に発表された日本海溝地震と千島海溝地震の被害想定で、最大13万7000人の死者が出るとされた北海道。厳寒期の北の海を漂う冬の使者・流氷が津波で市街地に押し寄せれば、道内13市町で建物倒壊などの被害が悪化するという。約70年前の十勝沖地震では浜中町霧多布(きりたっぷ)地区を流氷が襲い、家屋を破壊するなどの甚大な被害が出た。過去の教訓はどう生かされているのか。「流氷津波」を経験した町を歩いた。
「白い凶器だ」。雪の降る季節となった浜中町で、亀井博さん(85)は津波被害を目の当たりにした15歳当時の記憶をたどり、こうつぶやいた。1952年3月4日午前10時22分。一帯はマグニチュード8・2の地震に襲われ、通常であれば海産物にミネラルをもたらす「海の恵み」であるはずの流氷が凶器に変わった。
亀井さんは、近くにある長さ約5メートルの倉庫を指さし「あれの半分くらいの大きさはあった」と振り返った。「5、6人の男性が鉄工所の2階の屋根に登ったまま流され、助けを求めていた」とも。自身は家族と共に高台に逃げて一夜を明かした。日の出前に市街地に戻ると、数々の家屋が流氷に押しのけられていた。
太平洋沿岸では浜中町を含めて28人が死亡し5人が行方不明に。815棟の住宅が全壊した。町内ではその8年後のチリ沖地震の津波でも11人が命を落としている。「三たびの災害を繰り返さないように」。町には、こうした願いを込めた「津波災害復興記念碑」が建っている。
「真っ黒い壁のような津波が襲って来た」。その記念碑の脇で十勝沖地震を振り返るのは、かつて町議長を務めた福沢栄さん(88)だ。当時18歳。厚手のコートを着込み、ソリに祖母を乗せて馬で引っ張り、高台に避難した。「強い揺れが収まると、浜中湾の半分くらいまで水が引いた」。周囲に点在していた、大きな氷の塊が今も目に焼き付く。
北海道が今年7月に公表した想定によると、浜中町霧多布地区の最大津波高は9・3メートル。2度の津波被害を経験した町は1月、浸水の恐れがあった町役場を標高42メートルの高台に移転した。役場は震度7に耐えうる免震構造。市街地を総延長約3・2キロの防潮堤(高さ5・2メートル)で取り囲む工事も進んでいる。
それでも、石塚豊・町防災対策室長(57)は「防潮堤は津波の圧力に基づいた設計で、流氷がせり上がって越えていくことは想定していない」と語る。
内閣府が発表した被害想定は、道内の全壊棟数について、流氷被害を考慮して3000~5000棟増加すると予想する。日本海溝地震は約12万1000棟、千島海溝地震では約5万6000棟としている。流氷被害が見込まれる13市町には、想定を踏まえた対応が新たな課題となる。
人口約5500人の浜中町は今年1月時点で高齢化率が3割を超えている。石塚室長は「今回の被害想定を盛り込んだ施設整備や対策を検討したい」と話す。【本間浩昭、米山淳】
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